経済発展を阻害した商業蔑視

 

 「商人」という言葉は、もともと差別語である。中国で存在が確認できる最古の王朝・殷が周に滅ぼされた時、多くの殷の民が流浪の民となった。定住地を持たない彼等は、農業や工業に従事することができず、止むを得ず交易をするようになった。殷というのは国名だが彼等の民族としての名は「商」といったので、こうした定住地をもたず交易に従事する人を「商人」と呼ぶようになった。

 

 儒教を創始した孔子は、殷を滅ぼした周の体制を理想化したこともあり、商業への蔑視は遺伝子のように儒教を通して中国文明に受け継がれた。朱子学においても、商人は農民や大工などの職人に比べて一番身分の低い階層とされた。農民や職人は人間社会にとって必要欠くべからざる食糧や製品を作るが、商人は何も作らず、人が汗水たらして作ったものを、自分たちは汗もかかずに右から左に動かして楽に儲けている悪人だ、ということである。

 

 朱子学が庶民末端まで浸透した李氏朝鮮でも、商人は士農工商の身分制度の最下層に位置づけられた。その上先に見たように、物を作る仕事も賤業とされていたので、工業も発達しなかった。工業は農業から分業しておらず、多くの場合農村社会の家内副業として自給自足を目的に手工業が行われる程度だった。農民は、農産物と同時に日用品の原料も一緒に生産して、布を織ったり、家具や農機具など日常生活に必要な物品を作っていた。

 

 日常生活の必需品を物々交換する程度の経済体制が中心で、民間では一般的に場市(市場)を通じて商業活動が行われた。場市は、普通5日ごとに1回ずつ開かれ、農民・漁夫たちが集まってきて品物を交換した。

 

 店舗をかまえているのは、ソウルにあった六矣廛(りくいてん)という絹織物、綿布、綿紬、紙、苧布、塩魚をあつかう6つの特権商人がおもなもので、その他は負褓商(ふほしょう)という行商人による行商が行われていた。彼らはその地方の産物以外の商品を樽が無いので重い甕などに商品を入れ、車が無いため背負子で背負って、苦労して各場市を歩き回りながら売っていた。

 

 商品生産がほとんど行われなかったので、貨幣経済も発達しなかった。交易媒体としては、米・麻布・綿布が用いられた。第4代世宗(在位1418-50)代に「楮貨(ちょか)」(コウゾの紙幣)と「朝鮮通宝」を併用したが、通貨価値の低下と貨幣に対する需要および銅生産の不足から鋳造が停止された。その後貨幣を鋳造したり、17世紀半ばには明から貨幣を輸入したが、社会に広く使われることはなかった。

 

 1894年に朝鮮各地を旅行したイギリス婦人イザベラ・バードは、1ドル(=1円=0.2ポンド)が葉銭3200枚に相当し、100ドル運ぶのに馬1頭または男6人がかりで閉口したと書き残している。

 

 信じ難いことであるが、朝鮮王国を通じて安定した貨幣制度が普及することはなく、民衆レベルではほとんど自給自足か物々交換の経済までしか発達していなかった。

 

 その影響は、朝鮮半島が近代化して100年がたつ現在にまで及んでいる。2011年の韓国10大財閥の売り上げ高が約946兆ウォンに達し、韓国のGDPの76.5%に達した。その財閥が担う韓国の雇用割合はわずか6.9%。韓国人勤労者の93%は残りのGDPの枠内で生活していることになる。大企業を支える堅実な中小企業の育成がなされていないのである。失業率は10%を超え、若者の学歴競争は激しさを増している。

 

 北朝鮮にいたっては、一国の指導者が国民の幸福を願って行動しているようには全く見えない。草の根を食べさせてでも核ミサイルを完成させると血眼になっている。狂気の沙汰である。李氏朝鮮の両班と民衆の関係から一歩も抜け出せていない。