ハングル(作ったが普及せず)

 

 朝鮮半島では15世紀半ばまで、自民族の言語である朝鮮語を表記する固有の文字を持たず、知識層は漢字を使用していた。第4代王の世宗は、朝鮮固有の文字の創製を積極的に推し進め、1446年に「訓民正音」の名で公布した。「民を訓(おし)える正しい音」の意である。

 

 しかし、その事業は当初から事大主義的な保守派の反発を受けた。世宗が設立した諮問機関の集賢殿副提学だった崔萬理は1444年に反対意見を次のように上奏した。

 

 

 1、    わが国は中国を宗主国として奉じておりますので、新しい文字を創れば、中国に対する親意を犯すことになります。

 

 2、  中国の影響下にある諸国では、民族の特性や日常語が異なっているというだけで、漢文とちがった文字を創ったことはありません。蒙古や日本、そしてチベットに固有文字があるといいますが、かれらはみな野蛮人として蔑視されております。こうしたなかで、わが国が美徳を捨てるということは、われわれの文化を退歩させるものでありましょう。

 

 3、 そもそも吏読(注)は、漢字をよく読めないものたちのために創られたものであります。それは漢字の音や意味を借用して国語を表記するものでありますから、漢字と完全に分離させることはできません。しかし、創製される文字は漢字とは全然関係ありません。新字の創製は学問の発展に損失をもたらすだけでなく、政治をも遅らせます。(注:朝鮮語の語順で書かれた擬似漢文に、文法的要素が補完されて成立)

 

 ハングルがせっかく開発されたのに相変わらず公文書は漢語で書かれていた。朝鮮人の支那へ対する異常なまでの奴隷根性・事大主義(後述)から来るもので、両班や重臣から猛反対され、一般には普及しなかったのである。

 

 

 世宗が苦心して作ったこのハングルであるが、第10代国王・燕山君により正音庁などに所蔵されているハングル文書はことごとく焼き払われ、更に1504年学問の府である成均館が遊蕩の場とされ、ハングルの授業と学習が禁止されたのである。次の中宗は1506年に即位するとすぐさまハングルは完全に廃止されてしまったのである。両班が宗主国の支那の文明にかぶれ、なんと自国の朝鮮文化を蔑んでいたのである。

 

 

 1910年の日韓併合後に朝鮮総督府は半島の近代化に努力し、国語教育にも力を注ぐようになる。実は19世紀末から福沢諭吉の提案により漢字・ハングル混合の文章形体を使用し始めたのである。ちなみに当時の朝鮮人の識字率は6%程と言われている。

 

 初めて漢字・ハングルの混合文が使用されたのが明治19年の「韓城週報」という新聞で、その後は学校教育に組み込まれて一般に普及した。日本が韓国の文化を保護していたのであり、すなわち朝鮮人が言う「日帝36年の支配で韓国国語が奪われた」というのは妄言に過ぎないのである。

 

 戦後に韓国では漢字の非効率性、非大衆性が指摘されハングル国語純化運動が推進された。

 

 ●1948(昭和23)年…李承晩大統領による「ハングル専用に関する法律」が制定され、暫時的に  漢字を撤廃する路線を決定。

 

 ●1959(昭和34)年…臨時漢字制限法令が発布され、昭和40年からは公文書に一切の漢字使用を禁止。

 

 ●1967(昭和42)年…朴 正煕大統領の下で「漢字廃止五年計画」を指示

 

 ●1970(昭和45)年以降、総理大臣訓令で漢字使用が全面禁止

 

 ハングルは500年ぶりに復活したが、漢字を廃止した為に、同音異義語の氾濫が起き、抽象度が高い概念語の理解力と利用率の低下、韓語の言語伝達能力の低下を招き、世界で朝鮮人は最も読書率の低い国民になってしまったのである。