小中華思想(「日本が韓国より上」は絶対に許せない)

 

 「事大主義」と同様、韓国を理解するうえで非常に重要な概念が「小中華思想」である。この二つの概念は一見相反するようで、じつは「コンプレックス」という同じコインの表裏である。この激しい劣等感とその対極にある肥大化した優越感こそが、現在にまで引き継がれた朝鮮民族のDNAであるように思える。

 

 李氏朝鮮は14世紀末の建国以来、明の朝貢国であったが、17世紀に入ると満州(中国東北部)で女真族が建てた後金が勃興した。後金は1636年、ホンタイジが皇帝を称し、国号を清と変更すると、朝鮮に対して朝貢及び明への派兵を求めてきた。華夷思想を重んじ、女真族を北狄と蔑んできた仁祖にとって、女真族の要求は到底呑めるものではなかった。 

 

仁祖が朝貢を拒絶し、清皇帝を認めないと公表すると、激怒したホンタイジはただちに12万の軍を率いて朝鮮へ攻め入った。清の圧倒的な兵力の前に各地で敗北を重ねた朝鮮軍は開戦後わずか40日余りで降伏し、和議が持たれた。(1637年丙子胡乱) 

 

講和内容は11項目に及び、清への朝貢と清からの冊封、明との断交、朝鮮王子を人質に差し出す、膨大な賠償金など屈辱的なものであった。そればかりか仁祖は漢江のほとりの三田渡で、ホンタイジに対し三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をもって清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった。それだけでなく、その場に「大清皇帝功徳碑」を建立させられたのである。 

その碑には、「愚かな朝鮮王は、偉大な清国皇帝に逆らった。清国皇帝は愚かな朝鮮王をたしなめ、己の大罪を諭してやった。良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。」という内容が、満州語・モンゴル語・漢語で刻まれている。その碑の隣には、ホンタイジに三跪九叩頭の礼をする朝鮮王・仁祖の銅板レリーフが建てられている。

 

 その後、日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で、清の冊封体制より脱却できたのを機に、「屈辱碑」とされていた同碑は迎恩門と同時期に倒され、地中に埋められた。しかし日韓併合後の1913年には引き上げられ、さらに光復後(1945年)にも「恥さらしだ」との理由で李承晩の指示によって再び埋められたり、と何度か滅出を繰り返した後、大韓民国指定史跡第101号(195721日)に指定された。1963年に洪水で流されたが、ソウル特別市松坡区石村洞 289-3(北緯373011.92 東経1270625.44秒)に復元されて、今でも建っている。

 

 

韓国の反日教育

 

 韓国では、幼稚園で「独島はわが領土」と歌わせている。領土を取られた側が大騒ぎするなら話が分かるが、かすめ取った側がなぜ大騒ぎしているのか理解できない。

 また小学生から徹底した反日教育を行っているという。歴史を歪曲しての反日教育により、子どもたちは日本人は夷狄・禽獣であると教え込まれている。反日絵画展が開かれたり、反日イベントが行われる。

 

 韓国は国土の形からウサギになぞらえられるが、絵画では、韓国の上に立ったウサギが中国の方に顔を向け、お尻を日本に向け、お尻から日本列島の形をした糞を出している。そのほか、子供たちが日の丸を取り囲んで踏みにじっている絵、日の丸が描かれたトイレットペーパーを燃やしている絵、日本列島を火あぶりの刑に処している絵、「嘘つき民族日本人」を犬小屋で飼っている絵、核ミサイルを韓国から日本へ撃ち込んでいる絵など、まるで日本は交戦国であるかのようである。絵に付された言葉も、「日本の奴らは皆殺す」「日本列島を火の海にしたいのか」「日本というゴミ、捨てられる日はいつなのか」など、「なんでもあり」なのだ。