朱子学の弊害

 

  朝鮮半島には、朱子学は高麗時代の13世紀末から入ってくるが、14世紀末にはじまる李氏朝鮮では国家教学に採用された。16世紀には李退渓、李栗谷という2人の大儒学者が現れて、朱子学は朝鮮にしっかりと根を張ることになった。現在の韓国紙幣1000ウォンの肖像画は李退渓であり、5000ウォンは李栗谷である。

 

 高麗時代に中国の官僚登用試験である科挙を導入した。合格者は両班として、中央においても地方においても政治権力を占有した。科挙の中心的な試験科目は朱子学であったので、朝鮮全土を朱子学という巨大で単一な文化ローラーで余すことなく圧し固め、見事なまでに均一にならしてしまった。そのため、伝統的に各地で展開されていた多様な文化も習俗もすべて、朱子学に基づいた倫理・価値観の型枠にはめ込まれていった。国家ぐるみの朱子学への強制的総宗旨替えが行なわれたといえる状態ができあがったのである。

 

 人間や社会の多様性を完全に否定し、「朱子学一尊主義独裁体制」が築かれた。それを運営していく両班は、朱子学だけを勉強して東大に入った(競争はもっと激しかったが)ような人たちで、アタマの良い彼らは朝から晩まで教義論争にうつつを抜かしていた。それぞれが自分の「正統」を主張し相手を「異端」として攻撃し、四分五裂して血みどろの覇権闘争を繰り広げ続けた。指導者層がこんな状態で、世の中がうまくまとまるはずがない。社会の至るところで弊害が現れた。その実態を研究していて私の感じたことは、「そこまでやるか」という人間業とは思えない極端な社会のひずみであった。