先祖崇拝と煩雑な祭祀儀礼

 

先祖崇拝の死生観(子孫の血の中で生きていく)

 

「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」といわれるように、日本では、親への孝と主君への忠との板挟みで苦悩することがあったが、朱子学では孝が忠に優る徳目とされた。それも日本人が考える親孝行とは次元が違うほどの絶対的な規範である。

 

 日本では「孝行をしたい時には親はない」と言われるように、親孝行は親が「生きている時だけ」に限定されるものである。ところが朝鮮では、父親、母親が死んでからも生きているときと同じように敬い、大切に扱う。それが祭祀である。しかも、父母に限定されることなく、4代前まで祭祀をするというのが基本的なルールである。4代前というと、ひいひいおじいさんである。

 

 朱子学では、この「生命の連続性」は「気」の連続性として説明される。そして、「気」のバトンタッチをする資格があるのが男子のみとされる。男系の断絶は、その男系の全祖先を殺すことにもつながる一大事になるのだ。なぜ、男性だけがリレー走者なのか。「男は種で、女は畑である。農作物の種類は、畑でなく、種で決まる」と説明する。そういうもんですか。

 

 だから自分の死後に祭祀をしてもらうには、男子を生まなければならない。自分はいつか死ぬのだが、自分がご先祖さまにやってきたように、自分も祭祀をしてもらうことによって永遠に生きられるのだ。体は亡くなるが、子孫の血の中で生きていくのだという生命観であり死生観である。

 

 それを日常生活で実践するために、家の敷地内に祠堂を設け、父母や祖父母、故人となった家族の神主(しんしゅ=位牌)を祀るのである。儒教では人が死ぬと魂と魄に分離され、精神すなわち魂は天に帰り、肉体である魄は地に帰ると考えた。それで、魂を祀る祠堂と魄を祀る墓をそれぞれ造って先祖を崇拝するのである。とくに死んだ先祖の魂のこもった神主を作って祠堂に祀ることにより、祖先が神主へ憑依して、同じ敷地のなかで 子孫とともに「生きて」いるのである。

 

 家族 は、神主を含む一つの共同体である。一方は生きた存在であり、もう一方は、「魂魄」として存在している。子孫たちは、家に出入りするたびに祠堂に挨拶する。おいしい食べもの、新しいもの、めずらしいもの、貴いものは祠堂に先に捧げた後、子孫たちが分けて食べる。先祖たちは子孫からかけ離れて存在するのではなく、一緒に生活しているのである。

 

 

煩雑な祭祀儀礼が国民生活に浸透

 

 李氏朝鮮は、朱熹の『文公家礼』(冠婚葬祭手引書)を制度として取り入れ、朝鮮古来の礼俗や仏教儀礼を強制的に一律に儒式に改変した。李退渓に始まり、17世紀の宋時烈を経て、19世紀の李恒老によって集大成された、朱熹の文集全巻にわたる精密な注釈の仕事も、他の国では例をみない事業であった。

 

 朱子学では、法秩序の実践者たる官僚層が、同時に宗族(血縁共同体)秩序における模範的実践者であることを追究していたから、祖先祭祀の儀礼はきわめて重要な意味をもっていた。

 

 すなわち、祖先祭祀は儒教の実践倫理規範の根底をなす「孝」と同一視され、子孫の祖先に対する心情的な一体化を説明するために、理気論に基づく「合理的」な説明が導人されたのである。

 

 中央のみならず地方においても在地に基盤を置いていた在郷両班によって、埋葬方式、3年喪、家族祭祀、祖先崇拝や礼法などが一律に強制的に民衆に教化されていった。

 

 葬儀は、韓国では土葬である。儒教では遺体を焼いてはいけない。昔のお葬式では、麻布のぼろぼろの衣服を着ていた。「自分が一生懸命にお父さん、お母さんを養わなかったためにお父さん、お母さんが早く死んでしまった。自分はもう着る物なんかに構っていられません」という象徴なのである。つえをつくのは、「悲し過ぎてお天道様なんかとても見ていられない」という意味である。お葬式で激しく泣くのも儒教で決められている。(北朝鮮で前の将軍様が死んだとき、韓国のセウォル号沈没のときを思い出す。)

 

 

 命日についても、例えば8月 5日が祖先の命日だとすると、8月4日中にスタンバイしておいて、8月5日の深夜零時になったらすぐに祭祀を始める。霊が帰ってくるという前提で行われるので、先ず霊が入ってこられるようにドアを開ける。生きている人を迎えるのとまったく同じように振る舞う。お酒をつぎ、祝文を読み、「ご飯を食べてください」と言って参加者は部屋を出る。その後参加者で食事をする。このように細々した祭祀内容がすべて決められていて、その通り実行しなければならない。

 

 忙しい現代の生活のなかにおいても、祭祀に参加しないことは難しい。有能な大臣が、自分の親の喪中に仕事のため参加できなかったことを、不孝であると咎められて失脚するようなことも起こった。

 

 儒教の標榜する「徳治国家」は、法律や刑罰をもって民を治めるのではなく、生活の隅々にいたるまで、儒教精神を徹底し、基本的対人関係のルールを定め、人々のその遵守を強要したのである。