科挙と両班(やんばん)

 

 高麗時代に中国の官吏登用試験である科挙制度が取り入れられた。それが李氏朝鮮でも引き継がれ、試験に合格し官職に就くと土地が与えられ、それが世襲されるようになり、政治的にも経済的にも支配者階級を形成した。村落社会での警察権も付与され、文化面でも知識人として郷村の指導的役割を担ったのである。

 科挙に合格するものは両班出身者が多く、また科挙に合格できなくとも、彼らは地主として地方で支配的地位を維持できた。

 

 朝鮮王朝時代は厳しい身分制社会であり、両班が支配者階級に位置し、その下に、中人(都市に住み医師、法律、貿易など実務的な職種を世襲する階級)があり、その下の農工商の平民は「常民(サンミン)」と言われた。その大部分は農民で、自営農民と両班の土地の小作農とがあった。また最下層には公奴婢と私奴婢の賎民がいて、私奴婢は売買された。また李氏朝鮮は儒学を国の教えとし、高麗時代に勢力を持ちすぎた仏教は排除されたので、僧侶は賎民身分であるとされた。

 

 司馬遼太郎は『街道をゆく2 韓(から)のくに紀行』で次のような観察をしている。

 

「李朝のころ、ソウルにおける両班とはつまり大官たちである。在郷の両班は日本でいう郷士のようなものだが、郷士よりも権威がある。特権階級であるとともに、李朝のころは朝鮮人民を儒教で飼いならしてしまうための、『儒教の神父』のような役割をもっていたということができるのではないか。」

 

 司馬遼太郎は、漢民族の古代社会を原型として生まれた儒教が、李朝時代に、言語も人種も歴史も異なる朝鮮に導入され、その結果として朝鮮人の観念先行癖やそれがための空論好きという傾向にゆがめられたと観察し、その「ゆがめ役」が在郷の両班階級であった考えた。「人民を儒教へ儒教へと飼いならしていく調教師として、在郷の両班は必要であったのであろう。その意味では日本の武士階級とはまったくちがうものである。」<司馬遼太郎『街道をゆく2 韓くに紀行』1978 p.158-159 朝日新聞社>