事大主義(今も変わらぬ韓国の国民性)

 

 事大主義とは、「小」が「大」に事(つか)える、つまり、強い勢力には付き従うという行動様式であり、語源は『孟子』の「以小事大」である。国語辞典によれば、「はっきりした自分の主義、定見がなく、ただ勢力の強いものにつき従っていく」という意味である。

 

 事大主義とは朝鮮の伝統的外交政策である。この大というのはむろん中国のことである。つまり中国は韓国の上位にある国だったから、そこから侵略されても、ある程度仕方がないというあきらめがある。しかし、日本は韓国より下位の国だ、だから侵略されると腹が立つ。上司になぐられても我慢できるが、家来になぐられると腹が立つ、という心理である。

 

 朝鮮は、中国に貢ぎ物をささげる朝貢国として存続してきた。大国に事える事大主義の伝統が抜きがたくある。日本が近代化に懸命に汗を流しているころも、官僚らは惰眠をむさぼり、経済も軍事力も衰亡していた。その朝鮮を国家として独立させ、西洋の進出に備えようというのが日本の姿勢だった。

 

 

つねに変わる事大先

 

 事大主義が行動様式であれば、弱者の付き従うべき強者がつねに一定とは限らない。そもそも定見がないのだから、定義上も、弱者は事大する先をときどきの状況に応じ、より強い相手に変えていったのだ。

 

 実際に歴史を振り返れば、朝鮮半島の事大主義の相手は必ずしも漢族中華王朝だけではなかった。たとえば紀元前108年に漢王朝に挑戦した衛氏朝鮮は漢の武帝に滅ぼされ、それから約400年間、朝鮮半島の一部はいわゆる「漢四郡」により直轄支配されている。

 

 高句麗は1世紀に後漢、4世紀には非漢族の鮮卑族が建国した前燕、前燕を滅ぼしたチベット系といわれるテイ族の前秦に、それぞれ冊封された。また、百済は唐に、新羅も北斉、陳、隋、唐に朝貢し、それぞれ冊封を受けている。

 

 10世紀に朝鮮半島を統一した高麗は、漢族の宋、明だけでなく、契丹系の遼、女真系の金、モンゴル系の元にも朝貢し、それぞれ冊封を受けた。李氏朝鮮も漢族の明、女真族の清と冊封関係を維持した。朝鮮が清の冊封体制から離脱したのは、1894年の日清戦争後のことである。

 

 下関条約締結後、朝鮮半島では1897年に大韓帝国として独立したが、1910年には全土が日本に併合され、第二次大戦後には大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分裂する。伝統的な東アジアの冊封関係ではないが、20世紀以降の朝鮮半島が日本、米国、ソ連(ロシア)、中国の強い影響下にあったことは間違いない。

 

 いかに安全保障を確保するためのやむをえざる措置とはいえ、李氏朝鮮末期の高宗や閔妃が事大先を次々に変えた行動はあまりに場当たり的な対応であった。韓国の朴槿惠大統領の父親である朴正熙元大統領は生前、「民族の悪い遺産」の筆頭として事大主義を挙げ、その改革を真剣に模索していたという。

 

 こうみてくると、朝鮮半島の対中華事大主義は中華に対する「憧れ」を示すと同時に、中華王朝に対する「劣等意識」を反映したものでもあったことが理解できる。しかし、この「事大主義」に象徴される対中華「劣等感」は、じつは対中華「優越感」の裏返しでもあった。それを理解するための概念が「小中華思想」である。