崇儒排仏の国家理念(現在の朝鮮半島を作り上げた元凶)

 

 李氏朝鮮は建国理念に「崇儒排仏」を置いた。その名の通り「儒教を重んじ、仏教を排除する」ということである。理由としては、前王朝である高麗の建国理念が仏教であり、歴代の国王が仏教を特に重んじるあまり、仏事に傾倒して国政を顧みない者が続出たからである。本来高麗王朝は、儒教を軽んじていたわけではなく、太祖・王健は「仏教と儒教を互いに補完する存在」と見なし儒教を重んじていた。高麗末には王権と癒着した仏教勢力を排除すべく朱子学派が台頭し、そのパワーは高麗打倒の源になりそのまま李氏朝鮮に受け継がれたのである。

 

 朱子学の本来の思想は「仁義礼智信」や「君臣の道」「夫婦の道」「父子の道」「兄弟の道」「朋友の道」などの人間関係を説いた道徳の学問のはずである。現実の中国社会や李氏朝鮮ではその教義は本に書いてあるだけで、権力者に都合のいいように解釈し利用された。両班たちが朱子学の正統性を争い、朱子学の解釈権を握り、科挙の試験官を自派で占める。合格者は官僚になって、学閥は権力を手に入れる。儒者の塾は棍棒で武装し、敵方の打ち壊しまでした。朝鮮史では、これを「党争」という。こうした不毛の闘争が繰り広げられていたのである。

 

 その一方で、一般民衆に対しては、人為強制的で直接身体に暴力を加えるかたちで、朱子学の浸透を図った。ある日突然、捕縛吏がやってきて、親の3年の喪に服していないと言って棍棒で打ちすえる。よい墓地を探そうと骨を安置しておけば、不葬者として一族絶島送りになる。良婦二夫にまみえずという節婦道徳を強制され、前朝の風習どおりに夫の喪をといて再嫁していた女性を捕らえ、拷問する。寡婦の再婚はこの後、1894年に改革がおこなわれるまでかなわなかったのである。さらに、商人卑賎視、商業抑圧のイデオロギーとその実践の被害をまともに蒙り、ほとんど自給自足に近い極貧の経済のなかで500年の生活を送らなければならなかったのである。