朱子学の成立

 

 朱熹(1130~1200年)は南宋の儒学者で、朱子学の祖である。南宋(1127~1279年)は、中国の歴代漢民族王朝の中で最も軍事的には弱かった時代である。

 

 907年、繁栄を極めた漢民族の王朝・唐が滅亡すると、中国は「五大十国」と呼ばれる分裂の時代になる。この分裂状態をまとめ、960年再び統一王朝を建てたのが「宋」(北宋)である。しかし、宋は北方に位置する「金」という遊牧民族国家の侵攻を受け、1126年、開封を奪われ、皇帝(欽宗)一家をはじめ、皇族のほとんどと官僚数千人が捕虜として金に連行されたのである(靖康の変)。

 

 

 漢民族には、もともと自分たちこそ世界の中心に位置する文明人で、周囲の異民族はみな野蛮人だとする「中華思想」がある。それだけに野蛮人(北方遊牧民族)の捕虜となることは、このうえない屈辱であった。さらに悲惨な運命をたどったのが、皇族の女性たちである。彼女たちは、年長者は金の皇族や貴族の愛人にされ、年少者は、金の官立妓楼「洗衣院」に送られ上流階級を相手にする娼婦にされたのである。朱皇后はその屈辱的境遇に耐えかね、入水自殺している。(これは先に見た清の第2祖ホンタイジと朝鮮王国第16祖・仁祖の関係とまったく同じである。)

 

            

 皇帝を失った宋が南宋として生き残ることができたのは、欽宗の弟・趙構がたまたま開封にいないで難を逃れることができたからである。趙構は同年、江南の地に移り、臨安(現在の杭州)を首都に定めて帝位に就き(高宗 在位1127~1162年)、宋を復興させた(南宋)。

 

 しかし、華北一帯を占領し、都を燕京(現在の北京の近く)に定めた金は、さらに南宋を圧迫し続けたのである。

    

 このように宋が北狄と蔑んできた「金」に滅ぼされ南に押し込められた南宋も、引き続き金に圧迫され続けた。このように漢民族としては理不尽で屈辱的な時代に朱熹は生まれ、儒教を体系化し、朱子学を作り上げた。そのため朱子学は生まれながらにして、漢民族の優越性を説き、民衆を従順に従わせる支配階級の行動原理を説く下記のような排他的独善性を内包したものであった。

 

 

1.正当なる支配者(宋皇帝)は常に絶対の正義である。

 

2.反抗するものは常に絶対の悪である。

 

3.従って悪は滅ぼさなくてはならない。

 

4.当然ながら正義である支配者に忠誠を尽くすのは絶対の善になる。

 

 

 孔子によって「仁」が重要視されていた儒教に対し、朱子学は「礼」を最重要視した。「礼」の関係はいわば上下関係であり、中国の皇帝が臣民を統治するために都合良く系統づけられた、支配者のための教えである。儒教を必要とする国家は、国内が乱れ、国民が強い不満を持っていた。それを押さえ込むためにその儒教の教義を支配に利用したのである。