李氏朝鮮建国

 

  1276年、蒙古高原から興った元が南宋を滅ぼし中国全土を手中におさめた。朝鮮半島を治めていた高麗は元への服属を決定し、世子(後の忠烈王)がクビライの娘と結婚した。これ以降、歴代の高麗国王は元王室の王女と結婚し、()()(娘婿)高麗国王という高い地位をもつことになる。しかし高麗の政治は元の強い影響下に置かれることになり、元との関係で政局が動くようになった。元が日本に攻めこんだ文永・弘安の役においも、兵士の動員、軍船建造、食糧調達などのい負担がのしかかることになったのである。

 

 14世紀になると、世界的な気候不順が続き、地震などの天災とあいまって中国では大飢饉が起き、社会不安が広がっていた。王室の内紛もあって、元の支配は大きく揺らいでいった。

 

 こうしたなか1351年、浄土教系の白蓮教徒を母体とする紅巾軍が反乱を起こした。反乱軍の中から朱元璋(132898年、明太祖洪武帝・在位136898年)が頭角を現し、1368年、元勢力を蒙古高原に追いやり、南京で明を建国した。

 

 

 この元から明への大陸王朝交替の動乱のなかで、高麗においては恭愍王のもとで武人李成桂(13351408年)が南から侵入する倭寇と、北から侵入する紅巾軍を破って大きな力を持ってきた。1388年、親元派の命令で遼東地方の明勢力討伐に出軍した李成桂は政府に反旗を翻し、鴨緑江の中州・威化島で全軍の反転を行い(威化島回軍)、開京に突入して親元派を追放し元と断絶して、外交の基軸を明を中心とするものに転回した。

 

 李成桂は、北京で科挙の学として正統化された朱子学を修めた急進派官僚である鄭道伝133798年)らと手を組み、政治改革を断行し権力を掌握した。1392年、恭譲王から王位を譲られるかたちで、高麗国王に即位した。「譲られる」とはいっても、内実はクーデターによる権力奪取であった。