朝鮮王朝(1392~1910年)

 

  明に服属する国家形成

 

 元の勢力が衰退するなか、1392年李成桂は、高麗最後の国王恭譲王から位を譲られるかたち(禅譲)で高麗王に即位した。彼は国際的な正統性を得るために、ただちに明に使節を送り、明の洪武帝から「権知高麗国事」という地位を認められた。それは「国王」ではなく、「仮に高麗の政治を預かる」という意味である。

 

「朝鮮」という国名も明の洪武帝に付けてもらった

 

 それとともに洪武帝から国号を変更するよう命じられた。李成桂は重臣たちと協議し、「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備し洪武帝の裁可を仰いだ。洪武帝は、前漢の武帝に滅ぼされた古代王朝「衛子朝鮮」にちなみ、「朝鮮」を選んだ。

 

 中国の冊封体制においては、二文字の国号は一文字の国号より格が低いとされていた。中国では秦、漢、隋、唐、宋、元、明、清などすべて一文字の国号であるのに対し、周辺国は新羅、百済、高句麗、高麗、渤海、朝鮮、安南、日本などのように二文字の国号である(高句麗の高は尊称である)。このように、これから500年続く李氏朝鮮は、中国の明、続いて清に完全に服属するかたちでスタートしたのである。

 

 そして第3代太宗(在位1400~18年)の時代になって、ようやく懸案であった明皇帝の冊封を受けて「朝鮮国王」となり、国際的正統性を手に入れたのである。