両班が李氏朝鮮を支配した

 

両班文化の成立

 

 両班は高麗時代に始まり大韓民国が成立するまで1000年も続いた制度であり、その間に内容も大きく変貌した。朝鮮独特の存在であり、単純に日本の武士階級や中国の士大夫と同じ支配的な地位を世襲する「身分」と言うことはできない。その定義もまた難しく、両班と常民の境界も流動的で固定化されていないのが特徴である。歴史的には主として李氏朝鮮時代に存在した支配的な社会階層であると理解するほうが適当である。

 

 朝鮮では科挙に合格し官職に就くと土地が与えられ、それが世襲されるようになって、政治上でも経済的にも支配者階級を形成した。村落社会では警察権も付与され、文化面でも知識人として郷村の指導的役割を担った。

 

 15世紀の世宗の時代には朱子学で理論武装した両班が王権を支え、同時に宮廷文化の担い手となった。1446年の「訓民正音」によるハングルの創成は両班文化の大きな結実である。

 

激しい派閥争い(党争)

 

 両班には、都(ソウル)及びその周辺に代々居住する在京両班と、地方の農村部に代々居住する在地両班との二類型がある。前者は李朝成立に功績があった家系であり、代々多くの科挙合格者を出し、政府の高官につき、王家と婚姻関係を持った。両班全体から見ると数は少ない。後者の在地両班は数も多く、一般的に両班といわれるのは在地両班であるが、その幅もまた広い。

 

 16世紀になると、両班は、建国以来の功臣で在京両班である勲旧派と、新興勢力で地方在住の両班である士林派という二派の争いが激しくなっていった。勲旧派による士林派に対する弾圧である士禍が続いたが、その厳しい政治的対立のなかから成長した士林派に与して高度の政治倫理を掲げたのが、李退渓と李栗谷の2人であった。2人が活躍した16世紀後半が朝鮮の儒学が最も高揚した時期であったといえる。2人はそれぞれ朱熹の理気二元論を発展させたが、李退渓は「理」を根源的なものと見なして主理説を唱え、李栗谷は「気」を重視する主気説を唱えた。

 

 2人はともに士林派に属し、朱子学の理念から勲旧派の横暴を批判してともに国の統治の具体的実践をも論じたが、李退渓は君主の修養を重視したのに対し、李栗谷は臣下の修養の重要性を説くという違いもあった。その違いは朝鮮朱子学の二大学派となり、16世紀末には士林派内部の派閥争いである党争と結びついて深刻なものになっていった。

 

 このように16世紀までに儒教は政治理念として高度に理論化されたが、中国で明が滅び、満州人による清が成立すると、朝鮮の朱子学者は大義名分論の立場から、朝鮮こそが儒教の正統を継承しているとする小中華思想が生まれた。しかし二大学派に連なる両班はいたずらに観念的な教義論争や政争を繰り返すだけで、新しい時代への対応能力を次第に失っていった。

 

 

両班は体を動かさない(労働蔑視)

 

 朱子学は、聖人になることを学ぶ学問である。聖人とは極限的な主体性を獲得した人 間である。静坐という修養により聖人になれると説く。

 

 竹椅子がこわれた時、竹椅子の「理」(本来あるべき姿)を回復すべく、竹椅子を修理することは、普通の人でもできる。しかし、すべての存在にあるべき秩序をもたらすことは、聖人にしかできない。

 このような教義から、両班の生態は日本人にはまったく考えられないものになった。「体を動かさない」のである。もともと優れたアタマを持っている人たちだから、そのアタマを働かせて静坐して聖人に至る努力をするのが両班だというのである。

 

 その結果、体を動かすことがなくなった。自分で吸うタバコのキセルさえ自分では持たない。学生は学校へ行くとき本を持たず従者に持たせる。旅行をするとき従者に引かせた馬に乗るだけ。

 高宗(第26代国王)が米公使館を訪れたとき、公使館員が庭でテニスをしているのを見て、「あのようなことをどうして奴婢にやらせないのか」と言った。運動まで蔑視していたのである。

 

 社会の指導者がこれだから、一般庶民はどうなるか。労働蔑視である。職人の地位はものすごく低く、モノ作りの概念をなくした。労働する人は最下層の人である。朝鮮が鎖国を解いて開国したとき、朝鮮半島には木材を筒状に組み立てる技術がなく、樽がなかったし車輪もなかった。水や酒を運ぶ場合は、重い土の瓶に入れて人が背負って歩いて運んだ。人々は白い服しか着られなかった。染料も染める技術もなかったのである。衣類を縫う針もなく、せいぜい衣類に穴をあけるための粗雑なものだけ。

 

 朝鮮が開国して初めてその地に足を踏み入れた日本人が見たものは、「これは日本の平安時代以前の社会ではないか」というほど貧しい社会だった。この停滞が朝鮮王国500年の姿であっった。