朝鮮半島は、一貫して中華思想(華夷秩序)の枠内で生きてきた

 

 筑波大学の古田博司教授は朝鮮半島を、「廊下」と見立てる。半島の北東側には険しい山々があり、外敵が侵入するルートは同半島北西側の比較的なだらかな地域、すなわち遼東半島から現在のピョンヤン、ソウルを通り、半島南西部に抜ける回廊しかないからである。

 

 しかも、この回廊は先が海で「行き止まり」である。軍事専門家はこの種の「行き止まり廊下」のことを「戦略的縦深がない」と表現する。撤退できる余地に限りがあるため、長期戦に耐えられない悲劇的地形という意味である。

 

 だが、朝鮮半島の地政学的特徴は「廊下」だけではない。「廊下」は遼東半島から半島南部に至るルートだが、遼東半島北方にはもう一つの回廊、すなわち靺鞨、女真、契丹など多くの北方狩猟・遊牧民族が華北方面に向かうルートもある。これら二つのルートが半島北西部でつながっているのである。

 

 こうした地形の朝鮮半島にとって、華北の中華王朝やマンジュ地方の遊牧・狩猟勢力の強大化はただちに、潜在的脅威を意味する。一度外敵が件の「廊下」を通って南下を開始すれば、これを防ぐことは容易ではないからである。こうした事態を回避するため、半島の住民は二つの戦術を編み出してきた。

 

 第一の戦術は、侵入した外敵と徹底的に戦うことである。戦うといっても、劣勢になれば歴代の王族は国民を置いて逃げてしまうことが多かった。外敵と徹底的に戦ったのはむしろ、一般庶民だったのかもしれない。しかし、指導者を欠いた国民が外敵を打ち負かして国を守ることなどできるはずがない。

 

 第二は、潜在的脅威となりうる外敵が出現すれば、これとは戦わず、むしろ取り込み、朝貢し、冊封関係に入って自国の安全保障を確保する方法である。「名」を捨てても、しっかりと「実」をとる戦術だが、戦略的縦深のない朝鮮半島には、きわめて現実的な選択であった。

 

 7世紀新羅の金春秋(武烈王)は唐の冊封を受け、新羅国王となって百済と高句麗を滅ぼし半島を統一した。これ以後、朝鮮半島の国家は新羅であれ高麗であれ李氏朝鮮であれ全て中国皇帝の冊封体制下に入る。その間に、大陸に於いて民族の興亡が繰り返されるたびに、半島国家は強い勢力に朝貢し、承認を得ることにより国家を存続してきたのである。

 

  冊封体制(Wikipedia)

 

 古来、中国王朝はその国力と中華思想を背景に近隣諸国との外交関係樹立においては臣下の礼を求め、見返りに交易や対外的な権威を認めた。これが中国王朝を中心とした東アジアにおける中華秩序、冊封体制である。実際に中国王朝に対し冊封国がどのような義務を負っていたかは一律ではなく、個別の事情により異なるが、一般には形式的なものであり、西洋における植民地のように内政や外交に干渉されるものではなかった。

 

 朝鮮では紀元前3世紀頃、前漢初期に衛氏朝鮮が冊封されて以来、1895年に日清戦争で日本が清を破り、下関条約によって朝鮮を独立国と認めさせるまで、ほぼ一貫して中国の冊封国であった。高麗では国王が亡くなると、中国(宋)から冊封使が来て承認が得られるまで「権知国事」というつなぎの称号まであった。琉球など他の冊封国では国王が亡くなれば新たな国王がすぐに継ぎ、中国からの「事後承認」を得る形であったが、朝鮮だけは「事前承認」を得る形を取っており、「中国の許し」を重視していたといわれる。

 

 高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は、即位するとすぐに権知高麗国事と称して明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められた。明より王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備して洪武帝に選んでもらった。和寧は北元の本拠地カラコルムの別名であったので、洪武帝は、むかし前漢の武帝にほろぼされた王国の名前である「朝鮮」を選んだ。そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより朝鮮を国号とした。

 

 清代には、黄金100両、白銀1000両の他、牛3000頭、馬3000頭など20項目余りの物品を献上したが、毎年朝貢した記録や、閔妃が自身の子(純宗)を王世子(世継ぎ)とさせるため、側近を清へ派遣して自身の子を嫡子として承認(冊封)してもらっていた記録が残っている。