朱子学一尊の排他独善性

 

 統一新羅時代や高麗時代の仏教は、執権者たちの宗教としてその文化的・政治的全盛を極める一方、数々の弊害も顕著になってきた。高麗末に至ると仏教は、政治的・経済的な腐敗の温床になってしまった。一部の新進士大夫や革新的な武将たちから仏教に対する批判の声も高まってきていた。 そして、排仏政策を取るべきであるという世論が、形成されるようになった。

 

 仏教徒粛清の論争における中心的人物は、鄭道傳である。彼は、李成桂 (李氏朝鮮・太祖)の政治顧問として、新しい王朝の政治構造を策定するにあたって中心的な役割を果たしていたが、『佛氏雜辯』を著わし厳しい仏教批判を展開した。

 

 鄭の批判は、徹底的かつ体系的であり、その時代における禅仏教の実践の全てにわたるものであり、仏教教理には本質的欠陥が存在する事を提示することを目的とした。そして仏教という教団について、本気で縮小に取り組み、可能であれば永久にこの信仰体系全体の活動に終止符を打つ事を目指した激しいものであった。

 

 儒教者たちに支持された将軍・李成桂 (1335-1408)は、1392 年クーデターによって、高麗国王に即位した。彼はもともと熱心な仏教信仰者であり、建国当時は無学自超という僧侶を師としていたので、建国に功労のあった儒学者と仏教勢力との間で激しい権力闘争が繰り広げられることになった。しかし、太祖李成桂自身も、高麗仏教の腐敗堕落ぶりをよく知っていたので、次第に抑仏、廃仏政策がとられるようになった。

 

 その後朝鮮王朝の代を重ねるごとに仏教に対する弾圧は激しさを増していき、三代目の国王太宗(1400~1418)の時には、高麗朝の時代に1万以上の寺院があったのが、この時期に何と242寺までに減らされている。さらに寺院に属する、土地や奴隷などを続々と没収していった。

 

 次の国王世宗(1418~1450)の時には、全宗派を禅教二宗(禅宗と華厳宗)に統合して、それぞれ18寺院だけを残して、残りの寺を廃寺とした。

 

 九代目の成宗(1469~1494)の時には、出家禁止令が出され、十一代目の中宗(1506~1544)の時には、国中の仏像を没収し、溶解した上で武器をつくるなど非道な行いをしている。この頃になると、僧侶は漢城(ソウル)から出ることが許されず、労役に付くことを強制され、奴隷と同じ賤民とされた。

 

 李氏朝鮮成立から150年間に「そこまでやるか」というほど徹底して仏教弾圧を継続した。当然ながら、その間、朱子学を試験科目とした科挙の合格者・両班は増え続け政権中枢から社会の隅々に至るまで、朱子学一色に塗りつぶされていく。この一点を見ただけで朱子学一尊排他独善性が鮮明に理解できる。

 

 

 仏教の説く「万物に生命が宿る」「殺生を戒める」「万人平等」「輪廻転生」「永遠の生命」などを完全に否定し、人々の自由な生き方、多様性などを許さず、朱子学一色に染めてしまった罪は、現在の朝鮮半島に厳然と現れている。超自然や来世を語らないので、儒教は現世的ではあるが、逆に「そんなことしたら地獄に落ちるぞ」ということが通用しないので、悪事への抑止力がなく、悪事がエスカレートする。儒教には来世がないので、「来世での救いもなく」、悪人は永遠に悪人のままとなる。ここからいったん日本を悪人と決めたら、それを永遠に許さないという態度になる。

 

 また仏教を完膚なきまで弾圧した結果も厳然と現れている。李氏朝鮮末期に外国人が観察した社会は、淫祠邪教の巣窟であった。王宮から庶民にいたるまで、迷信やシャーマニズムにとらわれ、庶民は借金をしてまで巫堂や呪術師に頼り、その言葉には絶対的に服従したのである。

 

 世界には、国民のほとんどがキリスト教徒であるとか、イスラム教徒であるという国はたくさんある。なかでもイスラム教は、1日5回の礼拝とか、禁酒、豚肉食禁止、ラマダンなど、かなり厳しい戒律を設けており、信者はそれに従った生活をしている。しかし人々の考え方、生活の仕方まで、強制的に一つの思想に限定し固定してしまった国は、世界で朝鮮半島だけではないだろうか。

 

 それが、「慰安婦問題」「徴用工問題」となると、政府は日本と結んだ条約を反故にしてでも、国民の要求に屈してしまう。日本を評価するとどんなに優れた研究論文でも、政府・マスコミ・国民が半狂乱になって「売国奴」の烙印を押し排除してしまう、というような硬直した国民性に端的に表れている。

 

 

もう一つ、排他独善性を見ておきたい。党争についてである。

 

 李氏朝鮮で科挙制度が整備された15世紀頃から、地方の両班層で科挙に合格して官吏となり、中央政界で大きな勢力となったのが士林(知識人の集団を意味する言葉)であった。彼らは士林派と言われ、儒教的な道徳政治の実現を主張し、建国以来の王族や君侯からなる保守派(勲旧派)を批判したため、たびたび弾圧された。15世紀末から16世紀前半にかけて、このような士林派弾圧がたびたび繰り返された。それを士禍という。

 

 度重なる士禍にもかかわらず、新興勢力である地方両班層を母体とする士林派は存続し、次第に王権を支える基盤となっていった。しかしその一方で、両班はそれぞれ家を大事にして血統を誇り、血縁的な団結を強く守っていたので競争心が強く、中央政界でも権力争いのなかで常に派閥を作って争うようになった。それが党争と言われる争いであり、16世紀末から17世紀末にかけて激しく展開された。

 

「朱子学の教義の解釈の違いから東人派と西人派が生まれた。東人派は南人派と北人派に、さらに北人派は大北派と小北派に分裂した。西人派の方は老論派と少論派に分かれ、老論派が僻派と時派となった」という説明を見ただけで、「なんだ、これは?」となってしまう。要はどうでもいいような空理空論を掲げ、不毛の教義論争が延々と続いたのである。

 

 このような学説の争いを掲げてはいても、実態は派閥による人事と政権の壟断のためであるから敗北は罪を得ての死となる。殺すか殺されるか、言論と権謀術数をもっての陰湿な争いとなったのである。

 

 体を動かさない、体を使って働くことは賤しいことであると考え、朱子学を極めて聖人になることを目指している両班が、血で血を洗う党争を続けてきた。そして彼らは絶対的権力を持って、「下々の愚かな民衆を教え導いて」きたのが李氏朝鮮500年の歴史である。

 

 

 そのなかでも、先に見た「厳しい身分制度」や「極端な男尊女卑」などを当たり前のこととして社会に定着してきた独善性を、私はとても人間のやることとは思えない強烈な違和感を覚える。